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町田樹の「第九」を読み解いてみる

町田くんが『KISS&CRY』誌に連載しているコラム「プログラムという宇宙」の第3回「音楽に触発される身体」(『KISS&CRY 氷上の美しき勇者たち 日本男子2017-2018シーズン総括&2018-2019シーズン展望号』2018年)では、自身の現役最後のFS<第九>が取り上げられています。その中で<第九>のプログラムを作成するに当たって参考にしたという矢羽々崇氏著『「歓喜に寄せて」の物語 シラーとベートーヴェンの『第九』』(現代書館 2007年)を読みました。
そこで感じたこと、考えたことのうち、町田くんのプログラム<第九>と関わるところについて、論文風にまとめてみました。
あくまでもブログ主個人の私見であり、町田くん本人の意図とは無関係であることは、念のためお断りしておきますね。
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上掲のコラムにおいて、町田氏はプログラムの作成に当たってベートーヴェンが『第九』を「「苦悩を突き抜けて歓喜へ」」という物語を音楽構成の基盤として作曲した”という矢羽々氏の分析をを踏まえて、「第一楽章と第四楽章を慎重に抜粋し、時系列に構成すること」で、交響曲の哲理を損なわずに音源編集が行えると考えたとしている([町田 2018] p.100)。しかし、矢羽々氏によると、ベートーヴェンは第三楽章のアダージョを「個人の内面的な『浄化』」([矢羽々 2007] pp.171-172)と捉えており、従って「ベートーヴェンが『第九』を「絶望」から「浄化」を経て『歓喜』への歩みとして形作ろうとしている」と分析する([矢羽々 2007] p.175)。
町田氏の<第九>において第三楽章が使用されず、その結果「浄化」のプロセスが省かれた形となったのは何故か。あるいは、第一楽章に続く、器楽によって主旋律を奏でる第四楽章の導入部が、第三楽章のアダージョに代わって「浄化」を表すという見方も出来るが、第四楽章の主旋律を奏でているのがこの部分だけである以上、ここはすでに「歓喜」のパートであると捉えるのが自然だろう。
やはり、町田氏は自らの<第九>を構築するにあたって「浄化」のプロセスは不要であると考えたのではないか。「苦悩」の先にこそ、真の「歓喜」がある、町田氏がしばしば座右の銘として挙げている“After the rain”(雨の後にこそ虹はかかる)という言葉とも主旨が合う。
そう捉えると、4T、4T2T、3A3Tと高難度ジャンプが次々と繰り出される第一楽章の「苦悩」のパートに続く、第四楽章導入部に乗った美しいStSqは、苦悩を乗り越えた先にある静かで充実した歓びを表しているように感じられる。
4分30秒というフリープログラムの演技時間に合わせるためにやむなく採らなかったパートも多いだろうが、「敢えて使わなかった」であろう部分に着目すると、興味深い面が見えて来るように思われる。その意味で、一般に<第九>と言うと多くの人が思い浮かべる、第四楽章の合唱による主旋律を使っていないことにも、何らかの意図が見えるのではないだろうか。
矢羽々氏は、「歓喜に寄せて」と『第九』の後世における受容の変遷を追う中で、この詩と曲が持つ危うさを指摘している。読者、聴衆の高揚感を醸成しやすく、一体感を煽りやすいため、常に政治的なデマゴーグに利用されて来たことであり、その行きつく先が、ナチス・ドイツの宣伝工作の一環とされたことであった。
特に、矢羽々氏が問題ありと指摘したのが、まず、シラーの詩句にあり、ベートーヴェンも採用している第二節の中の次の件である。

それができなかった者は、涙を流して、
この仲間うちよりひそやかに去るがいい!

ナチスの事例を引くまでもなく、容易にマイノリティを排除し得るという問題をはらんでいるとされるくだりである。([矢羽々 2007] pp.68-70)
そして、ヴァーグナーが強調し、ナチスが積極的に継承した([矢羽々 2007] pp.248-249、p.271)「勝利を目指して戦う英雄」のイメージに繋がる第四節の次の詩句である。

進め、同胞たちよ、自分たちの道を
歓びつつ、英雄が勝利を目指すように

これらの詩句は、『第九』の合唱では主旋律を以って歌われるので、町田氏の<第九>には採られていない。町田氏はコラムの中で「第一楽章と第二楽章を繊細に抜粋し」([町田 2018] p.98)と述べているが、シラーの意図とは別に排除の論理やファシズムを想起される部分を、敢えて取り去ったということも意味するのではないか。
町田氏の<第九>において使用された合唱部分、第四楽章のコーダで使われている詩句は次の通りである。

抱き合え、幾百万の人びとよ
この口づけを世界中の人へ
同胞たちよ 星の天幕のかなたには
一人のいとしい父が住んでいるにちがいない

歓びよ、美しい神々の火花よ、
楽園エリュジウムの娘よ
(訳は[矢羽々 2007]による)

ここで歌われているのは、あくまでも「歓喜」と「世界中の人々の調和」と「大いなる宇宙への飛翔」であり、それがFSSpから2A、3Fと畳み掛けるジャンプ、渦巻を描くように内側へ巻いていくスパイラルを経てクライマックスの舞い上がる3Lz、CCoSpと循環と上昇の軌跡を描くパフォーマンスと溶け合って、歓喜の祝祭空間を醸成する。
排除の論理とファシズムの負のイメージを振り払い、演技者が表現したかった、本来作品が有する、自由と歓喜と人類の融和を謳い上げた<歓喜に寄せて>が見事に創出されていたのではないか。
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もう一つ、矢羽々氏は、現在の日本において年中行事と化した年末の『第九』について、「歴史的な現実や事実の忘却、それらからの解放=自由を求めている」、つまり日本ではこの曲の孕む重い政治性から目を背けるために『第九』を利用していると厳しく論じている。([矢羽々 2003] pp.363-367)
2013年の全日本の時、たまたま「かまいしの第九」を聴いて勇気をもらったことが「第九で滑りたい」と思ったきっかけだと語っていた町田くんにとっては、正直矢羽々氏が日本における年末の『第九』について批判的に論じたことは、ちょっとショックだったんじゃないかなあって思いやったりもするのですけども。
ただ、3.11を経て「かまいしの第九」にはむしろ「震災の悲劇を忘れない」という想いが込められているはずであり、町田くんも敢えて2014年の年末の全日本でこのプログラムを演じ、それを最後に競技の舞台から去ることによって、彼なりに厳しく<第九>と向かい合う姿勢を示したのではないでしょうか。


すいか | 町田樹 | 20:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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