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町田樹の言葉・2

2013年のスケートアメリカで「エデンの東」を見た時、「これは詩だ」という印象を強く受けました。「詩情豊か」というだけではなく、音楽そのものでもなく、演劇でもなく、詩、もっと言えば、文学。それは、コレオグラフィーの一つ一つの形が明快で何らかの意味を帯びているように見える即ち「言葉」であり、無数の意味あるポジション=「言葉」の連続によってプログラムが形作られているからだと考えます。
ソチ・シーズン以後の町田くんのプログラムは、純粋な舞踏である「火の鳥」と「交響曲第九番」以外は、このような「意味のある身体の形」=「言葉」の連なりから成る一連の詩、文学として作られているのではないかと感じてします。(ミルズ先生の振付も、おそらく町田くんとの共同作業で創られていると見てもいいと思うので、町田くん自身の意図が自コレオと変わらない形で反映されていると見てもよいかと)
それが「演劇」ではなく「文学」「詩」なのは、それぞれの身体の形が具象的なパントマイムのようなものではなく、抽象的な心象を表すものだから。
既存のよく知られた物語をベースにしている「エデンの東」と「白夜行」から、ドアノーの写真「パリ市庁舎前のキス」からインスパイアされた物語をサティの有名な旋律に乗せた「ジュ・トゥ・ヴー」を経て、「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」では町田くん自身が創り出した究極の悲恋の詩が綴られる。
そして、競技のルールの縛りから解き放たれ、純粋な表現活動として取り組んだ「継ぐ者」。初見のあたかも深い森の底で人ならぬものが舞っているかのような印象から、純粋な舞踏という先入観から抜けられなかったんですが、ある時、ふっと。公式に明記されている「ベートーヴェンの死に直面したシューベルト」の心象そのものを紡いでいると思い付いた途端、ストンとプログラムの意図が腑に落ちたような感じがしたのです。
だから、「あなたに逢いたくて」で、町田くんが公式で歌詞との「相聞歌」であると明言した時、自分の印象が、「やはり彼が表現してきたことは言葉で詩を紡ぐことなんだ」と肯定された気がして、狂喜しました。
フィギュアスケートのプログラムで、身体表現による「言葉」を積み上げることによる、言ってみれば「文学的表現」を試み、実現させている例などかつて見たことがない、自分が町田くんの演技に惹かれてやまない理由の一つがここにあったかと。
パントマイム的な具象表現を極力削って抽象的な感情を表す身体表現を積み重ねて物語を語るのはバレエの振付ではよく行われていることなのかな。その手法をきっと町田くんはミルズ先生に教わったのかも。それを自分の文学的素養と感性を融合させて、稀有な、そしてこの上なく美しいパフォーマンスを紡いで来たし、これからも紡いでいくのでしょう。

おそらく「エデンの東」も「白夜行」も、表現されているのは物語そのものよりも物語に対する町田くんの感想と言うか想いのようなものなんだろうなあ、と。人間の罪を描いた陰鬱な『白夜行』はもちろん、『エデンの東』もヒューマニズムに貫かれてはいるものの、人間の負の側面を正面から描いた、決して綺麗事だけの物語ではない。それがあれだけの美しいパフォーマンスに昇華されているのは、観る者が町田くんの身体だけではない、精神を通してそれらの物語を受け取っているからなのではないでしょうか。

一方で、生身の町田くん自身が投影されているのは、「ティムシェル」という言葉に託して、自ら夢を叶える道を切り開こうとする姿をも重ねた「エデンの東」ぐらいなのかなあとも。町田くんは自分が語りたい物語や詩を表現するのに自らの身体を依代としている、小説家や詩人がペンと紙を用いるように、と考えます。

PIW横浜、5/3午前の町田くん(低画質ごめんなさい)
すいか | 町田樹 | 17:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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