上野の森バレエホリデイ ダンサー・クロストーク メモ

新型コロナ感染症流行のため公演とイベントが中止になってしまった上野の森バレエホリデイが、オンライン上で特別プログラムを配信、その中の企画で、東京バレエ団のプリンシパル上野水香さんと町田くんのクロストークが行われました。走り書きメモを整理がてら投下します。

U:上野さん/M:町田くん

<舞踊と音楽>
M:自分はかつてフィギュアスケーターでアスリートだったが、フィギュアスケートは音楽を使うスポーツ。アスリートのモチベーションとは、対戦競技では行為の動機は他者の動きに対して反応する、記録競技では自然の法則の中でいかに身体パフォーマンスを極限まで発揮するか、フィギュアスケートは音楽に触発されて身体が動いている。バレエも同じだと思うが、フィギュアスケートやバレエにとって音楽とは何か、行為の源である。フィギュアスケーターとしてずっとフィギュアスケートにとって音楽とは何か考えて来た。当時4分30秒あったFSの演技は50mダッシュと同じくらいの身体強度があり、それを4分30秒続ける。ああもうだめっていう時も音楽があるから限界を超えられる。フィギュアスケーターにとって音楽とは未知なる領域に導いてくれる存在。

<ダンサーにとって音楽とは>
U:音楽あってのバレエ。音楽は源。音楽の力で出来なかったことが出来た。生のオーケストラが出してくれたテンポが乗りやすかったり、音と一体になれた瞬間、このために頑張って来たと思える。パートナーや周りのダンサーの力もあるけど、そこには必ず音楽が存在する。
M:シングルは氷の上に立つと一国一城の主。音楽も録音で聞きなれたテンポだからそれに感応して動けばいい。バレエは生のオーケストラの音楽の息遣い、パートナー、周りのダンサーがいて、音楽を中心にいろいろなクリエイティヴィティと実演が融合している。音楽が実演と創作を繋げていく。脚本家や舞台装飾家も音楽に動機づけられている。
U:町田さんの演技を動画で見たんですけど、見たのは「白鳥の湖」と「ドン・キホーテ」。私たちはオデットとジークフリート、キトリとバジルというように役割があるところを全部一人でやっている。一人の滑りの中からいろいろなドラマが万華鏡のように見えて来た。それが凄い。
M:とてもうれしいです^-^「一国一城の主」のメリットというか限界があって、オデットがいたらなあとかここにこういう舞台装置があったらなあと、グランドバレエの舞台に憧れた。でも一人で何とかしなきゃいけない時、どうしたら存在しないものを存在するように見せるか、どういう演出ができるか、考えた。
U:そう言う人いたなあって思ったら、ジョン・カリー。映画で見て、コメントした。スケートを芸術として人を感動させることに特化して見せている。共通するものを感じた。
M:ジョン・カリーは芸術指向のフィギュアスケートを追求した。「オーケストラじゃないとやだ」っていう頑固者だった。当時男性スケーターは純アスリートだった、跳べりゃあいい回りゃあいいという世界。そういう固定観念を打ち破りたかった。
高岸先生にレッスンを受けているんですけど、バレエとはミクロの世界の音を表現する芸術。フィギュアスケートは音のダイナミズムを表現する。バレエはミクロの世界を顕微鏡でのぞくような細かい音の息遣いを表現するということを高岸先生に伝授され、理解し始めた時に、「白鳥の湖」と「ドン・キホーテ」はそこから作り出せ、バレエの「ミクロまで歌う」とフィギュアスケートのダイナミズムを融合できた。
実はゲルギエフを尊敬している。ゲルギエフはタクトを基本持たない、指一本一本で指揮する。指一本一本が独立した指揮系統。ヴァイオリンの音色を小指が統制しているかのような、いろいろな楽器の周波数を指先で感じて表現している。指先の踊り。上野さんにも、視聴者の方も見て欲しい(カメラ目線)。お勧めは2000年ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮した「火の鳥」。指先が音をコントロールしているのか、音に反応して指が動いているのか、多分同時。音を拾う、音に反応する、ミクロの世界を追求する大事さをゲルギエフの指揮から学んだ。時々見返す。バレエにも通じる。指先一つ一つ、軌道がどうか、空気抵抗を感じる、指先で空気を触っているイメージ。
U:何となく感じていたことを言葉にして下さった。
M:空気に触っている、空気抵抗を感じる、競技者だった時は体験出来なかった。空気が水になって、存在する空気に触っている。バレエの繊細さと奥深さに気づき始めた。同時にダイナミズムもある。1分のソロパートでも息がマックス上がって、これだけキツいのか、ダンサーはアスリートだな。上野さんの本でも、音楽性も大事だけど身体の強さも大事と。
U:いろいろな要素が要求される。フィギュアスケートもバレエも技術記録よい踊りを踊るだけではない。感動してもらうために必要なこと、表現の隅々まで要求される。

(長いので畳みます)
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すいか | 町田樹 | 20:58 | comments(0) | - | - | - |

氷上の王ジョン・カリーDVD コメンタリー

映画では伝えられなかった情報知識、印象に残ったコメントを箇条書きにしました。情報量すごすぎ。【】内は自分感想です。
めっちゃ長くなったし、未見でネタバレ避けたい人もいるかもなので、畳みますね。

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すいか | 町田樹 | 09:25 | comments(0) | - | - | - |

「継ぐ者」の構成をまとめてみた

「継ぐ者」って、深い森の奥底で、精霊がひそやかに踊るダンスという感じで、神秘的で抽象的なプログラムという印象が強いんですけども。衣装とか、緑を基調とした照明(当然町田くんの意向が反映しているはず)とか見ると、「森」というイメージは確かにあると思います。

でも、町田くんがわざわざ公式サイトで、シューベルトが即興曲を作曲したのが、こよなく尊敬したベートーヴェンの死と同年であることとシューベルトはその葬儀に参列したことに言及した上で「ベートーヴェンその人に思いを馳せながら作曲したのかも」という推測を述べているところから、そのシューベルトの心象風景を表現したものではないかとふと思いまして。

それに「継ぐ者」という標題を重ねた時、ベートーヴェンの死に直面したシューベルトの喪失感と悲しみ、彼から受け継いだものを見つめ、深く思索をめぐらし、それが自分を通じて次の世代へ引き継がれていく未来を展望する、そんな一人の芸術家の心の動きというストーリーがおのずから立ち上がってきたように感じたのです。
そうすると、「森」のモチーフも「妖精の棲む深い森」というイメージから「木漏れ日の煌めくウィーンの森」、もの想いに耽りながらそぞろ歩く芸術家というイメージへと変わっていきました。

そこで、そのストーリーをもとに、シューベルト「4つの即興曲 作品90/D899」第3曲の構成に沿って、プログラムの構成をまとめてみました。

A1:変ト長調 主旋律。
ジャンプ 3T,2A
印象的な冒頭の何かを両手で抱え上げ空へ放つような振りから。祈るように両手を組む振付。全体的に顔が俯き気味で、ベートーヴェンの死に臨んで、悲しみ、悼む気持ちが表現される。

B:変ロ短調 マイナーな曲調に変化。
ジャンプなし パートの最後でキャメルスピン
フォルテと共に激しくステップを踏む。自分の中にあるベートーヴェンから受け継いだものに向き合う。

C 変ロ短調
ジャンプ 3Lo×2 ショートサイドで静止して天を凝視 パートの最後でコンビネーションスピン
ベートーヴェンから受け継いだものをめぐる思索は自分を通じて後の世代に引き継がれていく未来へと移ってゆく。

A2:変ト長調 主旋律に戻る。
ジャンプ 3F,3S
A1と比べて全体的に顔が上向きで柔らかく舞うような動きが多い。悲しみを未来への展望へと昇華してゆく。

コーダ:3Lz LSp 手を差し伸べて捧げるようなポーズでフィニッシュ
亡き偉大な先達から継承したものを、未来の継承者へと差し出す。

Je te veuxのような明確な演劇的表現がある訳ではないので、あくまで自分の推測ですが。こうした物語を想定しなくても、ピアノの音を一つ一つ丁寧に拾い、バレエ的な動きも効果的な表現として用いられた、とても美しい作品ですね、と改めて。

すいか | 町田樹 | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

町田樹のJe te veuxの構成をまとめてみた

10月に出版が決まった『町田樹の世界』への寄稿(町田樹振付作品に贈る言葉)執筆(大袈裟)に向けて、割と久しぶりにJe te veuxを見直したところ、町田くんの振付の方法論みたいなものをよく知った今見ると、実に分かりやすい構成のプログラムだなってちょっとびっくりしました。当時は割とふわっとした印象で見てた気がするので。

ということで、Je te veuxの構成をまとめてみました。(こういうのとっくに当時やってらした方もいらっしゃると思うのですが、まあ自分メモとして)
ちなみにJe te veuxの音楽の構成は、A→B→A→C→D→C→A→B→Aとなっていますが、町田くんのプログラムでは後半のA→Bは省略されて、A→B→A→C→D→C→Aとなっています。

導入:幕の前で煙草を咥える

機ソ于颪い販の始まり
A:煙草を咥えながらステップ→反対側のショートサイドで煙草を捨てる
B:帽子を取って挨拶し、帽子を捨てる→女性をエスコートするような手振りでステップ
照明:上方から暗めのオレンジ

供ノの楽しみから恋の終わり
A:幕の前に戻り、コートを脱いでトルソーにかける→ポケットからスカーフを取り出してキスしてコートにかける→ジャンプ(3S,3Lz)
C:ジャンプ(3F)
D:スピン
C:ステップでリンクの中央まで往復し幕の前に戻る
照明:A→C→D・下方から明るい黄色のライトが追加⇒Cで青紫に変わり幕の前に戻ったところで暗転

掘ソわった恋の追憶
A:スカーフを手にしてステップ→反対側のショートサイドでスカーフをくんくんしてもの想い
照明:青

Aの繰り返しで場面転換というのが基本構成になっているようなので、まずJe te veuxという音楽ありきで作ったプログラムなのかな。ドアノーの写真は衣装とラブストーリーという辺りの着想の元になったのかも。

第一作の白夜行や、プロになってからのがっつり作り込まれた作品群と比べると非常にシンプルで、町田くんが「お茶を飲みながら…」というのもよく分かるかな、と。でも、三部構成とか、スケートの要素(ステップ、ジャンプ、スピン)で表現しているところ、照明の工夫などは、バジルやボレロに向けての習作的な位置づけと言えるのかもしれないです。まあ推測ですが( ー̀ωー́ )

すいか | 町田樹 | 20:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

町田樹の「第九」を読み解いてみる

町田くんが『KISS&CRY』誌に連載しているコラム「プログラムという宇宙」の第3回「音楽に触発される身体」(『KISS&CRY 氷上の美しき勇者たち 日本男子2017-2018シーズン総括&2018-2019シーズン展望号』2018年)では、自身の現役最後のFS<第九>が取り上げられています。その中で<第九>のプログラムを作成するに当たって参考にしたという矢羽々崇氏著『「歓喜に寄せて」の物語 シラーとベートーヴェンの『第九』』(現代書館 2007年)を読みました。
そこで感じたこと、考えたことのうち、町田くんのプログラム<第九>と関わるところについて、論文風にまとめてみました。
あくまでもブログ主個人の私見であり、町田くん本人の意図とは無関係であることは、念のためお断りしておきますね。
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上掲のコラムにおいて、町田氏はプログラムの作成に当たってベートーヴェンが『第九』を「「苦悩を突き抜けて歓喜へ」」という物語を音楽構成の基盤として作曲した”という矢羽々氏の分析をを踏まえて、「第一楽章と第四楽章を慎重に抜粋し、時系列に構成すること」で、交響曲の哲理を損なわずに音源編集が行えると考えたとしている([町田 2018] p.100)。しかし、矢羽々氏によると、ベートーヴェンは第三楽章のアダージョを「個人の内面的な『浄化』」([矢羽々 2007] pp.171-172)と捉えており、従って「ベートーヴェンが『第九』を「絶望」から「浄化」を経て『歓喜』への歩みとして形作ろうとしている」と分析する([矢羽々 2007] p.175)。
町田氏の<第九>において第三楽章が使用されず、その結果「浄化」のプロセスが省かれた形となったのは何故か。あるいは、第一楽章に続く、器楽によって主旋律を奏でる第四楽章の導入部が、第三楽章のアダージョに代わって「浄化」を表すという見方も出来るが、第四楽章の主旋律を奏でているのがこの部分だけである以上、ここはすでに「歓喜」のパートであると捉えるのが自然だろう。
やはり、町田氏は自らの<第九>を構築するにあたって「浄化」のプロセスは不要であると考えたのではないか。「苦悩」の先にこそ、真の「歓喜」がある、町田氏がしばしば座右の銘として挙げている“After the rain”(雨の後にこそ虹はかかる)という言葉とも主旨が合う。
そう捉えると、4T、4T2T、3A3Tと高難度ジャンプが次々と繰り出される第一楽章の「苦悩」のパートに続く、第四楽章導入部に乗った美しいStSqは、苦悩を乗り越えた先にある静かで充実した歓びを表しているように感じられる。
4分30秒というフリープログラムの演技時間に合わせるためにやむなく採らなかったパートも多いだろうが、「敢えて使わなかった」であろう部分に着目すると、興味深い面が見えて来るように思われる。その意味で、一般に<第九>と言うと多くの人が思い浮かべる、第四楽章の合唱による主旋律を使っていないことにも、何らかの意図が見えるのではないだろうか。
矢羽々氏は、「歓喜に寄せて」と『第九』の後世における受容の変遷を追う中で、この詩と曲が持つ危うさを指摘している。読者、聴衆の高揚感を醸成しやすく、一体感を煽りやすいため、常に政治的なデマゴーグに利用されて来たことであり、その行きつく先が、ナチス・ドイツの宣伝工作の一環とされたことであった。
特に、矢羽々氏が問題ありと指摘したのが、まず、シラーの詩句にあり、ベートーヴェンも採用している第二節の中の次の件である。

それができなかった者は、涙を流して、
この仲間うちよりひそやかに去るがいい!

ナチスの事例を引くまでもなく、容易にマイノリティを排除し得るという問題をはらんでいるとされるくだりである。([矢羽々 2007] pp.68-70)
そして、ヴァーグナーが強調し、ナチスが積極的に継承した([矢羽々 2007] pp.248-249、p.271)「勝利を目指して戦う英雄」のイメージに繋がる第四節の次の詩句である。

進め、同胞たちよ、自分たちの道を
歓びつつ、英雄が勝利を目指すように

これらの詩句は、『第九』の合唱では主旋律を以って歌われるので、町田氏の<第九>には採られていない。町田氏はコラムの中で「第一楽章と第二楽章を繊細に抜粋し」([町田 2018] p.98)と述べているが、シラーの意図とは別に排除の論理やファシズムを想起される部分を、敢えて取り去ったということも意味するのではないか。
町田氏の<第九>において使用された合唱部分、第四楽章のコーダで使われている詩句は次の通りである。

抱き合え、幾百万の人びとよ
この口づけを世界中の人へ
同胞たちよ 星の天幕のかなたには
一人のいとしい父が住んでいるにちがいない

歓びよ、美しい神々の火花よ、
楽園エリュジウムの娘よ
(訳は[矢羽々 2007]による)

ここで歌われているのは、あくまでも「歓喜」と「世界中の人々の調和」と「大いなる宇宙への飛翔」であり、それがFSSpから2A、3Fと畳み掛けるジャンプ、渦巻を描くように内側へ巻いていくスパイラルを経てクライマックスの舞い上がる3Lz、CCoSpと循環と上昇の軌跡を描くパフォーマンスと溶け合って、歓喜の祝祭空間を醸成する。
排除の論理とファシズムの負のイメージを振り払い、演技者が表現したかった、本来作品が有する、自由と歓喜と人類の融和を謳い上げた<歓喜に寄せて>が見事に創出されていたのではないか。
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もう一つ、矢羽々氏は、現在の日本において年中行事と化した年末の『第九』について、「歴史的な現実や事実の忘却、それらからの解放=自由を求めている」、つまり日本ではこの曲の孕む重い政治性から目を背けるために『第九』を利用していると厳しく論じている。([矢羽々 2003] pp.363-367)
2013年の全日本の時、たまたま「かまいしの第九」を聴いて勇気をもらったことが「第九で滑りたい」と思ったきっかけだと語っていた町田くんにとっては、正直矢羽々氏が日本における年末の『第九』について批判的に論じたことは、ちょっとショックだったんじゃないかなあって思いやったりもするのですけども。
ただ、3.11を経て「かまいしの第九」にはむしろ「震災の悲劇を忘れない」という想いが込められているはずであり、町田くんも敢えて2014年の年末の全日本でこのプログラムを演じ、それを最後に競技の舞台から去ることによって、彼なりに厳しく<第九>と向かい合う姿勢を示したのではないでしょうか。


すいか | 町田樹 | 20:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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